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2012年3月31日 (土)

2012年1月-高崎旅行・箕輪城跡見学

しばし滞っていた1月の高崎旅行の記事を。今回が最後です。
日にちは、2012年1月29日(日)。

この日は朝から、中世の名城と謳われた箕輪城跡の見学へ。
高崎駅前から、伊香保温泉行き、またはその途中の箕郷行きのバスに乗る。
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箕郷は「みさと」と読む。








バスは群馬バス。略して群バス。東急バスに色が似ていた。
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高崎駅から30分程の箕輪本町というバス停で降りる。
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ここも高崎市内。おそらく近年、合併したものと思われる。
回りは普通の住宅地だが、新興ではなく、歴史ある風情の町並み。
そこから、箕輪城があると思われる方向に歩いていく。
因みにこの道の反対方向。




20分程で箕輪城の麓らしき所に出た。
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うーむ、小さな山が見える。あそこが城の筈。








更に近付くと、大手門跡に辿り着いた。
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城の平面図を確認しますか。
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後から入手(撮影)した地図。
今いる地点は左下の所。
箕輪城は、幾つもの郭(曲輪とも書く)と、それを分断する幾つもの空堀で構成されている。
名前の付いている郭は、下から、木俣、郭馬出、三の丸、二の丸、本丸、御前曲輪。










では、城中心部へ向かいます。
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坂を登っていく形になる。








イキナリ、杉がうっそうと繁る小道。ここは「大手尾根口」と呼ばれている所。
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その名の通り、道の片側、城の外側に当たる部分は深い堀になっていて、尾根を歩いている様に感じる。














しばらく行くと、「木俣」という郭に出た。広場になっている。
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郭と郭の間は、こういう空堀で区切られている。
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写真で見るとそうでもないが、実際に見るとかなり深く、浅い堀で2~3m、深い堀だと7~8m位ある。(感覚的に)







木俣からの景色。赤城山が見える。
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木俣から城下を望む。結構高い位置にある。
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木俣の先には「郭馬出」という郭。
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攻撃隊の待機所で、城攻めの敵に対して、ここから一気に出撃する。城の外側からは中は見えない造りになっていたそう。






郭馬出の先には「大堀切」
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深い空堀を分断する、土で盛られた連絡通路です。








大堀切の先に二の丸。
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80m四方の郭で、本丸が持久防衛のための郭であるのに対して、二の丸は、出撃の拠点だそう。







二の丸の先にある本丸へ。
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当然、本丸との間も深い空堀に隔たれていて、細い土橋を渡っていく。
写真は土橋から左手に堀を見た場所。






こちらが本丸入り口。石碑があった。
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なんとも重厚な趣の箕輪城跡の石碑。
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箕輪城は、1500年頃に、この辺りを治めていた長野氏が築城。
長野業尚(なりひさ)-憲業-業政-業盛、と四代に渡り、約60年の間、拠点となった。
当時、難攻不落と言われた名城であったが、名城主と語り継がれる業政の死後、武田信玄の総攻撃により、周辺の諸城を落とされ、遂に箕輪城も落城となった。

落城後は、武田氏、織田氏、北条氏と目まぐるしく支配者が代わり、徳川の世を迎えると、四天王の一人、井伊直政が城主となった。
戦がなくなった泰平の世となると、箕輪城の立地は、周辺の地を治めるのに不向きなためか、より広い土地を求めて、高崎城へ拠点を移した。(当時は和田城と言われており、移転後に高崎と改名)・・・という様なことが石碑の隣の案内板に書かれている。

石碑の向こうに本丸。木々に囲まれた広場、その外側は空堀になっている。
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通常の城では、本丸が最後だが、箕輪城には本丸の奥に「御前曲輪」という領域があった。
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本質的には本丸の一部であって、精神的な城の中心。箕輪城には天守は無かったが、天守が本丸の同一平面に設けられたとも考えられている。
落城の際には、長野業盛以下がこの場所で自刃した。
・・・と書かれている。




本丸まで辿り着いたが、実は、未だ見学していない箇所がある。
御前曲輪から降りて、空堀の中を歩く。
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空堀の中は、木を伐採して発掘されたためか、その木屑(ウッドチップ)が敷き詰められ、ふかふかの絨毯の様な歩き心地。場所によっては、伐採したての木の枝が多数転がっていたりもする。
この写真の左側が本丸のある位置。




一部には石垣が残っている。中世の城らしく不揃いな積み方。
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空堀を進むと、左側に二の丸と本丸を繋ぐ土橋が見えてきた。先程、歩いて堀を見下ろした土橋です。
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こうした人工的に高低差が設けられていて、少し前に通った場所を違う高さから望む。まるで、ロールプレイングゲームのダンジョンをリアルに歩いている感覚です。






空堀をずっと進んで行くと、三の丸に辿り着いた。
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ここも二の丸同様に、違う方角から攻めてきた敵に対する出撃拠点でしょう。







更に進むと鍛冶曲輪という郭に出る。
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武器を作る鍛冶場があったとか。
ここにも少し石垣が残っていた。

鍛冶曲輪の先は一般道に出たが、当時はそこも城域だったのだろう。




城山の回りの一般道をぐるっと回って、搦手口に回った。
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搦手口とは、城の裏門のことだが、長野氏の頃は、こちらが大手門(城の正面口)だったそうで。
泰平の世になって、守るに都合の良い方から、交通の便の良い方に大手門を変えたのだと。





箕輪城は日本百名城の一つでもある。
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これだけ堀や郭、城の領域が残っていれば当然でしよう。

後、城の東北部にある丸馬出という郭も見学したが、割愛。キニナル人は実際に行って見てきてください。

おおよそ見学時間は3時間ちょっとでした。



最後に、箕輪城の遠景を。
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自然の地形を利用して作られ、所々に敵への備えの創意工夫が見られ、名城と言われた理由がよく分かった。
進んでいって深い空堀に出くわす度に「うぉ~!」「うぉ~!(感嘆)」の連続。

そして、ここまで原型を留めた戦国時代の城を見たのは今回が初めて。江戸時代の城と比べて、石垣や門、櫓、天守といった建築物は殆ど無いが、高低差や自然の地形を利用した点に見るべき所がある。いい運動にもなる。

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