2014年10月-新潟旅行・新発田城見学
2014年10月4日(土)、いよいよ新発田城見学。
本丸を囲む内堀の一部と門、復元された幾つかの櫓がある。
赤穂浪士、堀部安兵衛なる人の出身地でもあり、門の前の広場には銅像もあった。
なぜ新発田の人が播磨の赤穂浪士かと言うと、江戸の高田馬場の決闘で有名になり、浅野家家臣の堀部氏から養子に迎えられたとか。
新発田城は江戸時代になってから本格的に整備された城で、本丸と二の丸の間に、帯曲輪なる領域を設けて、防御力を高めている。
責め手から見ると二の丸を突破してももう一段、防御の壁が待ち構えているという訳。
本丸左手には鉄砲櫓があり、ここから帯曲輪や、そこを突破して表門に迫る敵を狙い撃ち出来る仕組み。
残っているのは本丸のごく一部だが、城全体は、二の丸、三の丸が縦に連なる構えで、その他の領域は湿地帯だったそう。
表門の左には先程の鉄砲櫓が見える。
鉄砲で狙い撃ち出来るように角度が付けられているのがよく分かる。
表門から本丸へ入ります。
表門の右側には辰巳櫓が復元されている。
最初に目にしたのがこの辰巳櫓。
中も見学可でまだ新しかった。(床がツルツルで色が若々しい)
実は見学出来る本丸の領域はごく僅か、奥行き十数m程で、他は自衛隊の敷地になっている。
少し向こうに別の櫓があるが、あそこまでは本丸からは辿り着けない。(外側からなら行ける)
表門の内部も見学可で、歴代の新発田藩主の紹介が。
溝口氏が江戸時代約270年間、国替えなく幕末まで12代存続。外様大名としては非常に珍しいのだと。
こちらは先程の鉄砲櫓。全体的に石垣は精密に積み上げられ、当時の最高技術が伺える。
最後に、先程遠くに見えた三階櫓。
こちらも復元です。
窓が閉まっているということは内部の見学も不可であろう。
近くに寄ることも出来なかった。
珍しいのは屋根が丁字型になっており、しゃちほこが三体ある。
新発田城、残された遺構は少ないが、名城の名残が垣間見れた。
今の新潟市なんかよりここ新発田の方がずっと繁栄していたのだろうねぇ、江戸時代は。
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